2020-10-29

大きな課題と転機(下) − コロナ禍からの転換 編

−−−> 前回からの続きです。

とても長くなってしまいましたが、→下と続き、今回で結ぼうと思います。ただ書き出す形式で書き始めたので、なにか書きたいことがあるのですが、どうしても上手く表せずに、まったくまとまらい。

言い出しきれないから、ただ遠回りをしてしまい、そのキーワードが出てくるか?出てきてよ!って、脳や意識に問いかけながら、なんとも読みづらい文章を早く終わらせたいのに終えられずに長文を書いています。

先述したように、今回で当サイトでのコラムやブログは最後にします。サイト自体ではお知らせや業務上の報告等は記していくとは思いますが、今後は、それらもTwitterなどのSNSを使用するかもしれません。

こうして上手く表現できない理由のひとつには、やはりもっと書きたくなってしまう自分とのせめぎ合いのような感覚で、お米とはかけはなれた内容まで掘り下げたくなってしまう自分もいて、それを隠したり抑えたりすると、こうしていつまでも的を得ないしょうがない文章ばかりになってしまうことが、こうして今回試してみてよく理解できました。

だって。ここはお米のWebサイトですから、純粋に美味しく皆様に食べていただいて、幸せの一粒くらいでも身になっていただければ、それだけが本分ですからね(笑)

そう、まさにそのとおり!昨今は、農家さえも広告化してしまい(代理店が入ってきたわけでもないのに)より『いいお米』だとか『田舎のいい人が作ってる野菜だよ』だとか、内容よりも『見た目』を売ることが主流になってしまいました。

そうです。『真っ白なお米』その見た目を作り出し、見た目がよいほうが価値が高額になる。無農薬や自然栽培にしても同じように、ブランド戦略やパッケージ戦略による、耳障りのいい広告的フレーズの販売活路を、もはや消費者も農協も、そして生産者までもが、広告的魔法にかかってしまっているように感じます。

見た目至上だったこれまでの世界

しかし、それもそのとおり!だって、お米や食品は、美味しさや栄養価にしてもすべて、食べてみないとわかりませんから、そして、その効果や価値にしても『見た目には一切わからない』ものなんですよね。

一等米とか二等米とかありますが、値段が同じだったら、そりゃあきっと一等米をみんな購入すると思います。私もそうします。しかし、もちろん現実は「一等米のほうが断然高額」なんです。これは小売価格以前に、生産者がお米を売る時点で一等と二等以下では、評価額として大きな格差が生まれます。つまりは、率直に農家の収入が年間で数十万円から数百万円の違いが出てくるのです。

では、一等や二等という品質基準には、栄養素的に水分値のような内容の検査も多少ありますが「ほぼこれで決まる!」と言えてしまう基準が、まさに『見た目』です。食味がどんなに美味しいだとかはほぼ関係ありません。

故に、先述した「色彩選別」を、昨今では多くの生産者が玄米の時点で選別機を通し、白くないお米を大量に捨てて、真っ白なお米で検査に挑むのです。だって年収が大きく変わりますからね。そして、やはり生産者としてのモチベーションや自信も個人差はありますが、心理的影響は少なからずありますよね。

同じ生産者の同じ田んぼで採れたお米でも、見た目で価値が変わる。また、その田んぼのお米がどんなに美味しくて栄養価もあり優れていても、見た目の一等と二等という区別によって、結局、お米やさんなどの時点で、生産者も田んぼも無差別に混ぜられてしまう。

当店(八米屋)が、単一生産者販売にこだわる理由は、やはりそこにあります。謙虚に自信と責任をもって、美味しいとか安全とか言えるのは、単純に、その生産過程のすべてを行なっているからです。ただ、美味しすぎて安全すぎてジャンボタニシさんやカメムシさんなどにも好評になってしまうのですけどね(笑)

本当は田んぼによっても生産者によっても、お米は全く別のものなんです。しかし、そうこうしてスーパーに並ぶ頃には、真っ白になってどれも一緒になっちゃう。とは言っても、別にそれが悪いことだと私は言いたいのではありません。

だって、先述したように「お米って味がない」という現代人も多いように、お米はどれもお米ですから(笑)ただ述べるべきなのは、そういう時代だということです。お米に限らず、他の作物や食品も、その他の工業製品に至るまで。だからこそ広告的な価値基準が必要になるのです。そして、消費者は、そのもの自体を選んだり購入するのではなく、まずその前にあるのが、広告的価値を買っているのです。

まぁ、本当はその他にも様々な要素や多面的な現実があるのは確かですが、ここはあえて偏った見解で書いています。つまりは、そういう時代なんです。大げさに言うのなら、現人類の多くはそういう文明なんです。(こういう話は、また今後、別のサイトかなんかで改めてちゃんと書いていきたいことでもあります。)

そう、そういう時代だったのです。これまでは… ここまでは… そう、ここで述べるべきなのは「コロナ禍以前までは」そういう文明だったということなのです。

食糧難にこそ日本のお米

さて、この文章の主題『コロナ禍からの気づきと学び』というテーマの範囲内で考えた時に、これまで書いて来た内容も多く関連する上で、やはり「食糧難」についても、触れておこうと思う私がいます。

この2020年から2021年、つまりは秋から冬にかけての気温の下がった時期。コロナ禍に加えインフルエンザなどの他のウイルスも併合した脅威を懸念されています。どれもこれも、解析するのなら、やはり「不自然な細菌」なんですよね。どう考えても不自然なんです。これらのウイルスというのは。

そんな危険視された季節が今後に予測されているわけですが、新型コロナ感染防止対策による自粛要請期間などの国民の動きを全員が体験した現在ですから、どうしても、生活必需品や食料は、分かち合い行き渡ることを選ぶことは、現代人には無理なことは、皆がわかったと思います。

イソジンですら買い占めちゃうわけですから。しかも、そんなことですら影響力のある人が口にしちゃうのですからね。

その上で、デマ情報や高額転売なども横行して、確かにそれらを行なっているのが本当の日本人であるのかは確かではありませんが、ことコロナ禍においては、世界中の問題ですから、国家全体としても食料の多くを輸入に頼る日本として、国家間の輸出入においても危険性は無視できません。

仮に輸入品が途絶えるなら、確かに「食糧難」に陥る可能性はあります。しかし、そんな時こそ『日本のお米』だと、私は思っています。

以前から、当店では繰り返し発言していますが『お米は不足していない』のです。この国において、買い占めなどの所有欲や独占欲さえなければ、皆が普通に自分の分を足りるだけで、すべてを分かち合えるなら、国民分は余るほどに足りているのです。

それに、一粒万倍などとも言いますが、お米のエネルギーはすごいですよ。特に日本のお米は、先述したように、エネルギーカプセルですから(笑)そして、お米ってそのままでも長期保存できてしまう、これまたスーパーフードなんです。

令和の米騒動!?

無論、どんな作物も食料も、氷河期のような冷害や長期の日照りによる干ばつや水害などの被害により、農作物が収穫できないという不作や凶作による飢饉が起こることは過去にもありました。

そのような環境下における災害時は、有事とも匹敵する特例な事態ですので、助け合いや分かち合いといった協力し合う同志としての行動が人間としてできるかどうかにこそ課題と本分があると言えます。

それと似た感覚で捉えてしまいがちな事態もあります。「米騒動」日本では有名ですが、誰もが覚えてしまう言葉ですが、史実です。しかし、その米騒動とは決して『米不足』が理由ではないのです。

様々な要因が重なったのは確かですが、理由は単純に言えば『米価の高騰』によるものなのです。お米が一般庶民が手が届かない馬鹿高い値段になったからこそ、米が食べられなくなり、結果「米騒動」に発展したのです。

時には権力者や政策などにより、米価は人為的に操作されたこともきっと多かったと勝手ながら思います。大儲けした者もいたことでしょうし、消費者は泣かされもしたことでしょう。

しかしながら、儲かったのはきっと、生産者である農家さんでは無かったであろうことも想像がつきます。そうです。いつだってそうなんです。お米関連の主役は生産者でもなく、消費者でもないのですよね。工業で言えば技術者や開発者こそが一番環境も給金も低いなどと同じ原理です。それがもう、この国の劣化の大きな理由のひとつだと私は思っています。

さて、本題の「米騒動」ですが、たとえば実際にお米が有り余っていたとしても、つまりは、風評ひとつで買い占めや、それによっての価格の高騰、売り渋りや転売など、どこまででも一時的に「米不足」は作れるのです。

コロナ禍においては、まさかそんな米不足を捏造するようなことは、さすがに無いと思いますが、風が吹けば桶屋が儲かるかのように、風評で米価は高騰するのです。お米ばかりの話ではないですけどね。マスクもそうですが、他の食料も大切にするべき時勢であるのは、間違いありません。

10月下旬の現在は、感覚的にはそうでもないかもしれませんが、冬になり気温が下がって、万が一、感染症の発症率が上がったり、自粛再開の必要性が高まったなら、事態は激変します。

単純に、長期間の外出を避けるためにも、お米はかなり最適な保存食でもありますから、当然ながら店頭から消えてしまうことでしょう。そして価格の高騰がおこり、どんどん手に入らなくなる。

まさにコロナ禍「令和の米騒動」です。

マスクはなぜ高騰したのか

そんな謂わば風評被害の主役は、消費者ではなく、私は「消費社会」という仕組みそのものが主役、謂わば犯人だと常に思っています。ここまで長々と書いてきたことも、まさにそんな「消費社会」に原理があります。

なにも資本主義がわるいなどとは言いませんので誤解しないでください。しかし、経済、商業を中心とした国家政策を軸とした結果、競争でも協定でも売買でも損益でもなんでも、その原理は「消費」にあると言えると思うのです。

経済をまわせ!などと言葉を掲げて、消費を促す社会は、いずれ社会自らをも消費してしまうのです。結局、そこには例えばスマホで見ている株価の暴落のように、なにも失っていないかのようで、失うどころかマイナスの資産になっています。

自然界のすべてに「マイナス」はありません。何億円ものマイナスになっても、その人物が消えて無くなるわけでもないのです。

そう、実際に、実数として、お米が消えてしまうわけではないのです。架空の虚数的な社会にお米がただ泡のようにはじけて消えるかのような、買い占めたからといっても、その人が一日で全部食べちゃうわけではないのと同じ理論です。

ただただいつもどおりに分かち合い、自分の分だけを食べて、同じだけを作っていれば、足りなくならないのです。しかし、ここで問題というか、我々人類には課題があるのです。それは「マスクはなぜ高騰したのか」を正確に答えられる人はどのくらいいるでしょうか。

問題は、マスクはなぜ足りないのか?よりも、なぜ高騰したのか?なんだと思うのです。これがきっと前述した消費社会の課題なんです。

日本のお米屋さんはどうする?

マスクの価格高騰の理由の正解は、もちろん「材料の高騰」と「需要の上昇」です。これが確かに自由経済です。では材料はなぜ高騰したのか?それは結局、価値が上がったこと、価値が上がればまた結局「需要の上昇」が原因だと言えます。

ここで言えるのは「需要」というのは、つまりは「消費」なんです。消費というのは人気や流行やなんとでも言えますが、つまりは「消費」です。

人類がこの「消費原理社会」を改めない限り、本当に人間に大切なものほど、どんどん不足し、高騰します。元の実際の質量はなにも変わらないはずなんですけどね。

もう金利にかかる金利のように、虚数社会はどんどん膨らみます。なんかそんなかんじですよね。根拠のない風評被害で、吐息もいつか竜巻になっちゃって、結局、理由なんてわからずに、みんな苦しめ合うことになる。

さて、暴走した話の結論として、ここで、私がそんな社会に正しいお米売りだとしたら、どうするんだろう?って考えるのです。

ここで価格を上げれば大儲けできます。また逆説的に、お米の価格を上げなかったら、あっという間に買い占められてしまうかもしれませんから、ここで価格を上げれば買い占めや利己的な購入者からお米を守ることができるかもしれません。そうすれば、本当に必要としている人にお米を提供することができます。

適正価格ということを理想に語る経済論者も多いですが、この適正価格こそが、時代とともに変動する、もっとも安定しない価値基準だと思います。金融自体、つまりはお金自体も毎日毎時毎分、価格が変動しているのですから、尚更です。

しかしながら、もちろん利益ということも考えて、ここで価格を上げる人間のほうが、きっと圧倒的に多数なんだと思うのです。そしてそれこそがこの社会や文明の中での正しい生き方であって、まさにマジョリティーなんです。

日本人はそんな中でも、正義や美徳や全体主義としてもある程度の値上げで収まる良くも悪くも大人しめや恥を知るとかいう動きを見せる民族であったと、昭和も知る私としては思い込んでいたのですが、コロナ禍においては、転売などの惨劇を見せられて、正直驚いています。

マスクの高騰も国内での生産性の低さと材料のほとんどを国外に頼っていたこと、それこそあっという間に高騰してしまいましたから、その上で、今後も含め輸入にあたっても流通はまだまだ難点が多いと予測します。

そういう時、日本人は「えげつなー」「足元見やがって」みたいなことを言う人が多いですが、マスクの材料の高騰、これこそがスタンダードな経済です。

これが日本人の主食「お米」だったなら、日本のお米やさんはどうするのか?その選択に米騒動がかかっていると言っても過言ではありません。

お米にも人間にも別の道がある

経済や米騒動の話は一旦やめて、それよりも大前提として、そもそもお米って商品だとか価格とか価値だとか、そんなことよりももっと前にですね。そもそもお米って植物であり食物なんですよ。そういう話に戻します。

「真っ白な綺麗なお米」という表現をここまで多様してまいりましたが、象徴としてわかりやすいと思ったからこそ、そのような言葉にしてみたのですが、その「真っ白」とか「綺麗」の裏側で、きっとなにかが見過ごされたり、大事にされなくとてももったいないことになっていたり、また、それらは、本当に「綺麗」なのでしょうか。

または、例えば「無菌」というのは、本当に「安全」なのでしょうか。それに、ドラえもんの道具のように、例えば、転んでも怪我しない転ばない!アンシンロード!みたいな空間道具があったとして、それによって転ばずに育った子供は本当に「安心」に育つのでしょうか。

「もう転ばない」その安心っていったい誰のための安心で、無菌でも無傷でも、それによって安心するのは誰でしょうか。完全な安心を手に入れたなら、もう、おぼつかない足取りの子供を、誰一人として見守らなくなるのでしょうか。もしもそうならば、その安心によって得た余裕や時間で、その人は、なにをするでしょうか。

…って、暴走し過ぎな内容になってますが、お米の話に戻しましょう。そもそも「お米」とか、人間が「食べる」とか、人間が作物を育てるだとか、それらは、そもそも…こうだったのかなぁ???って…。

それこそ長い数千年とかの間にいろいろと変化や進化をして現在があるのですから、本当はそもそも人間はものを食べていなかった!だとか、途中で、全く違う仕様や活用方法に変わってしまった可能性もあるとも言えますよね。

なにかが違う感覚があるんですよね。もっと別の道がある気がするんです。

というか、お米がこの星にはじめて育った時のコンセプトや企画、またはお米の役割って、きっと、現代とは違っていたのではないか?という気がするんですよね。

大きな課題と転機

お米も野菜なども食料や生命と言えますが、無駄にしたり、評価をしたり、廃棄したり、真っ白にしたり、大量に増やそうとしたり、売れるからそれをいっぱい作るだとか、いっぱい売るために薬物漬けにしちゃうだとか、それは趣旨が違うんです。お米の本意というか、そんなことのためにお米があるわけじゃない。そんな気持ちになります。

つまりは言うならば「他の生命を犠牲にしてまでもやることではない」んですよ。お米って。

もっと自然に育む、万物との共生的なやり方で十分足りる。そんなかなり優れた植物であり食物であり、それがお米なんだと思うんです。そんなすごいお米を育てるのに、その土壌や関連するすべての自然や生命体を汚したり、殺したり、バランスを壊したり。もはや、それって本末転倒ですよね。

海がゴミや重油で汚れたから漂白剤でキレイにする!そして翌年、魚を食べた人間が原因不明の病気なる!もう、それくらい滑稽でキレイな本末転倒劇。そんなことをある時期から100年も200年もずっとやっているのではないかって思えてくるんです。

お米にも人間にも別の道がある。当店(八米屋)は、今後はそんな別の道を進もうと思います。まぁ、ウチくらいは別の道に行っても、構わない。というか、全く影響なんてないでしょうから(笑)

以前から使用していたコピーが『農家の食べてる美味しいお米』というフレーズなんですが、まさにそれです。『八米屋は農家』なんですよね。その上でも、現在のこのWebサイト内に書いてある内容などのように、現代の社会や農家としても、風変わりなのは確かですからね。

自然万物との共生とともに「農家そのままのお米」を、今後は大切にする。という方向にここでチェンジします。

当面の間、お店に鍵をかけます。

最後に、これは、今季の変更点の最後の項目4「オンラインショップを会員制限定販売へ変更します。」なのですが、前述した、所謂「コロナ禍での米価」について「お米屋さんどうする?」という問いへの、ある意味で当店の回答なのです。

現状は「コロナ禍」において、完全な終息を待ちながらも、その都度の経過により常に判断は致しますし、当店の方針として、自粛及び感染防止対策をはじめとした、全生命の安全優先のスタンスは継続していきます。

その渦中にあって、当月はじめに令和二年度の新米販売を開始致しましたが、今後、コロナ禍終息までの当面の期間において、Webショップを『会員制限定販売』とすることを決めました。また、現時点では、新規の方の登録は休止とさせていただきます。

ショップサイト(http://shop.hachimaiya.com)は、パスワードを入力して観覧及びご利用いただく仕様になります。既に、当店にてお米をご購入いただいたお客様には、個別にパスワード含む詳細をご案内させていただきます。変更時期は未定ですが、2020年の11月中のどこかで行う予定です。

結論として、当店は、日頃からご愛顧いただいている方の分を守るためと、万が一の「米騒動」的な事態への回避対策として、いざという時は、本当にお米を必要としている方に分かち合えるように、「限定ショップ」として、ある意味で、『あえての縮小化』をする決定をしました。

ここできっと商品を増やしたり値上げとかでも、そういう謂わば、ここで拡大化すれば、勘ですが、たぶん、かなりな利益もあるかもしれませんが、こんな時だからこそ縮小化(元から小さいですが)をして、本分としての「お米を大切にする」という原点に向かおうと思います。

本当に必要な人に必要な分のお米が巡るように、分かち合えるように。そんな人類になれたなら、それこそ困難や不都合のほうから去っていくんじゃないかなぁなんて思っちゃう私がいます。

そう、当面の間、お店に鍵をかけます。八米屋が向かうべきはそういう方向だと思います。

不要不急の拡張型未来信仰

この「拡大化」という幻想。前述した「消費社会」という文明の人類への課題として、なんでも拡大、拡張、たくさん、いっぱい、いっぱい売れる。儲かる。会社が大きくなる。たぶん日本が西洋化とともに得た思想でもあります。「多い」ということはいいことだ!という架空の概念。

拡張していく未来を戦後しばらくずっと昭和の人は見てきたのは知っています。夢があった時代だということも知っています。しかし、社会が拡大していくということはそんな夢を消費していったとも言えるのだと感じます。トヨタの富士の裾野の未来都市計画なんてのを見ていると、気持ちはわかるけど、そっちじゃない。

昭和の夢はもう「不要」。未来っていうイメージをどうしても作り出すっていうのも「不急」。そこにそろそろ気がついてほしい。そっちじゃない。進むべきはそっちじゃないんじゃないかなぁ… だったら未開の樹海をもっと増やすくらいのほうが本当は発展なんじゃないか?…なんて、気がしてしまうのです。

もう、なんていうか、わざわざおっきいことやるぞ!とか、またそれを発表するぞ!とか、もうなんかああいう昭和生まれの社長ってそういうのばかりで、昭和時代に描いた夢をなぞることばかりな気がするんですよね。拡張型未来信仰みたいな。

もう本当はそっちじゃないと感じるんです。むしろ、縮小に向かうような、ほとんどのものを見直して削ぎ落とす必要性を素直に受け入れる感覚こそに、急いだほうがいいのではないか?って感覚があるんです。(まぁ、個人的感覚ですけどね 笑)

ベルツの日記から見る日本人と玄米

明治以降、たぶん何度となく様々な研究の題材や教材や、ある一定の理論付けのための引用や参考としての出典として愛されてきた「ベルツの日記」をご存知でしょうか?

昨今もネットでも多くの方がブログやSNSで書かれているのを見かけますので、ご存知の方も多いと予測します。ネット検索で「ベルツの日記」や「ベルツの日記+玄米」とか「ベルツの日記+人力車」だとかを検索すると、多くの内容がヒットします。

例えば、参考として、下記の該当の内容、わかりやすくまとめてくださっていると思いますので、リンクを掲載いたします。


《玄米ごはんと福耳 − ベルツの日記》
https://www.fukumimigenmai.com/archives/135

《100年前の日本人は世界最強の体力を誇る民族だった!昔の日本人は尋常じゃなかった…》
http://kwsklife.com/100years-japanese/


日本人や人間の食の不思議については、いろいろと思うところがあるのですが、ここではまた別の話になってしまうので省略して、ベルツ氏の日記にもある「玄米」やお米や、現代から見れば粗食にカテゴライズされてしまうであろう、元々の『日本人の食』は、私としては、実はかなり最先端とも言える先進的な食文化を持った民族だったと思っています。

それが、ある時から、それよりもはるかに後進的な食文化に、飲み込まれてしまったという見解を持っています。そして、さらに「一日3食」や「肉も魚もバランス良く!」などという『思い込み』が、昭和の頃には主流に化けてしまいました。

近頃では、偏食的な過剰な食の強要などをフードファシズムだとか呼ぶらしいですが、私が思うに「一日3食!肉も魚もバランス良く!」「好き嫌いなく!残さない!」っていう、未だに思い込んでいる人の多い思想。

そんな幼稚園や教員なんかが未だに言葉にしてしまう「なんでも食べなくちゃ大きくなれないよ」「食べ終わった人から遊んでいいよ」とか、全部食べたら「えらいねー」とかって… もはや『食育ハラスメント』とでも言いたくなる。

基本的に、体の欲求とは正直だと思っています。いらないものは不要なんです。必要なものをその都度欲しがるように出来ているんです。それを無視するから、負担がかかって、または逆に、栄養が不足して、健康や発育に影響が出てしまうのです。

あ、ただの暴飲暴食とか不摂生とかっていう、もはや体の声よりも自我の声にしか耳を傾けられなくなっちゃった大人は、もう別次元の話ですからね。しかしまぁ、それはそれで、暴飲暴食の深層心理には、心の声があるでしょうけどね(笑)

この「ベルツ氏の実験と考察」、やはり私としてもとても感慨深く、無視できないんですよね。

なんていうか、現代ではもう失って忘れてしまった、本当のお米や食の秘密が、そこにある気がするんです。

お米も食も、本来の場所へ

あ、別に私は「思想」を説いているわけではないのですよ。偏った平和活動などと同じくして、例えば、思想からビーガンに無理やりなって、他の食文化を敵対視するような方々や、そんな思想を強要してSNSなどで延々と攻撃する(誰も責めてないのに)ような、過剰な方々の不健康な人相ったら、みんな共通点があって、いつも見るたびに怖くなるのですが、そういうのとは私は全く違いますからね。

そう、飯は頭で食うもんじゃないですから、お米も玄米も野菜も思想で食べるわけじゃないのです。

もっと自然に、腹減ったから食べるんです。見たら食べたいなって思って、だから食べるんです。そういう本来の「素直な体」に戻すことがとても大事に思うのです。

そして、栄養学的なことはわかりませんが、お米に秘められたパワーやエネルギーを、やはり着目することが必要に感じています。強いて言うなら、お米だけじゃくて、例えば、物言わぬ(と思われている)野菜も草木も植物なども含めた生命のエネルギーを食するというのは、本来は、どういうことであったのか。

それを自然の中で、学問や科学以前に、肌身で感じている生き方があるのですから、そこで、見た目や食味だけの狭い範囲じゃなく、もっともっと本来の美味しいお米を作るという楽しさや、その大切さ。

万物、地球、そう、人間なんかがやってることなんてほんの僅か、全行程の割合で言ったら、それこそ人間なんて喰ってるだけくらいなもんですよ。天然の恵みなんですよえ。それをいただいているわけです。お米も、田んぼなどの土地にしたって全部は貸していただいているわけです。

そして、だからこそ、当たり前に分かち合うこと。

誰のものでもないお米。誰のものでもあるお米。

当店というか、私が今後、大切にしていくのは、そういう場所で、現実はかなり理想論という感じなのですが「本来、食べるってそういうこと」だよなぁって思うわけです。

不自然に気づいて「自然」になる

さて、もう終えますね。長かった。結局、最後までちゃんとまとまらない(笑)わけのわからない恥ずかしい独り言のような文章になってしまいました。

このようなコラムやブログみたいなものはこれで終えます。予定ではこれらの文面も、次のサイトリニューアルとともに消去することになります。たぶん読んでいる方もいないでしょうから問題はないですよね。

販促的に縮小化として、オンラインショップも限定にするのですから、この公式サイトにしても、情報をもっと少なくするほうがよいと思います。そのためのリニューアルをします。しかし、やれたとしてもたぶん来年中くらいかな。

ともかく「なにも新しいことをするわけでもない」という縮小ばかりの小さな改革的な指針や説明を書き出して、結局は自分が把握や納得をするために、だらだらと書き出しをしたようなものなので、皆様にいかに伝わったかどうかもわかりません。

お米や農業や稲作、それに食や生命、そういうものの原点へ向かっていく。まるでそういうことをきっと私は今回書いた気持ちです。いかにこれまで「不自然」だったのかに気づいて、今後はもっと『自然』に。

ただひとつだけ言えるのは、たぶん、無理です。私が生きているうちでは間に合いません。それだけは確実に断言できます。

私が生きている間になど、薬物も食も人々の風習や認識や観念なんて、根本から変わるだなんて、500年はかかるのではないでしょうか。

私には無理です。

いまできることをしていく

たぶん絶対に無理です。

なんていうか、成し遂げるだとか、責任をもって完成させるだとか、大志を大成するだとか、そういうことではないんですよね。きっと。これもまたひとつ。コロナ禍で間接的かもしれませんが学んだことがあります。

たとえ完成しなくても間に合わなくても、はじめることや続けることのほうが大切ということ。なにかをしようだなんて思って、お米や自然や生命を、どうこうしようとかどうこうするべきだなんて、そういうのが一番、不要なんですよねきっと。

ただ、できることをしていく。それが大事なこと。自然のままに受け入れ、いまできることをする。

あれですね。「アナと雪の女王2」の挿入歌のアナ(神田沙也加さん)が歌う『わたしにできること』あのシーン、あの歌。個人的にとっても好きなのですが、ああいうことですよね。(知らない方は検索などででも是非聴いて観てくださいね♪)

そう、順調な平坦な時だけじゃないですから、真っ暗闇のようなことだってあってこそ、そこから気づきや学びや転機をいただける。長々と書いてきましたが、コロナ禍からの気づきと学びと転換という話題でした。

今後においても、日頃から「常連のお客様の一年の消費予定分は常に備蓄してあるから安心してください!」と、私は言ってきましたが、、今年は出来ましたが、例えば次は、また次も、といつでも同じことができるとは限りません。それこそが自然であって、お米もまた自然にそって生きています。

万が一を言うならば、大きな災害などがあったなら、一年分まるまる不作となる可能性は、農業には常に100%あるものなのです。商業や工業と違うところが、まさにその点です。以前、当店の方針として「いまにしか存在しないお米」にてお伝えしましたが、納品の約束は不可能なんです。

だからこそ、皆さんも、自分自身で、自分の裁量や勘や良心や虫の知らせでもなんでも、お米の備蓄が必要だと感じたら、自分ができることとして行動してくださいね。まぁ、もちろんそんな騒動はないと願っていますけどね。

どんなことがあっても、ただ、できることをしていく。

そのくらい自然なお米を今後は大切にしていきたいと思います。

今後とも八米屋をよろしくお願い申し上げます。


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